天の果てにて芽生えしは

「師匠? なんですか、これ」

 いつも通りごちゃごちゃとしている師匠の机の上に、見慣れない意匠の小瓶がひとつ置かれていた。それはやたらと頑丈そうで、中の液体は不思議な色合いに揺れている。

「ふふん、聞きたいか? 聞きたそうだな?」
「はい! ぜひ! 聞きたいです!」
「そうだろうとも! これはな、我が叡智の粋を集めて調合したものでな」

 師匠が小瓶を取り上げて、わたしの目の前でそれを揺らす。見れば見るほど不思議な輝きで、きっとまたとんでもないものを作り上げたんだろうなあとため息が出る。

「受け取れ」
「えっ?」
「私の優秀な助手たるお前に、被験体第一号となる栄誉を与えようではないか! ……使わんに越したこともなく、きっとお前ならばこのようなものがなくとも乗り越えるのだろうが」

 その呟きで、この人はわたしがこれからどこへ行って何をなそうとしているのか、知っているのだと気づいた。ウルダハまで話が届いていることは特に不思議ではないけれど、いつも研究ばかりの師匠の耳にまで入っているとは思わなかった。いつも通り挨拶に来て、いつも通りお手伝いをして、帰ってきたらまたそんな日々に戻ろうと思っていたのに。

「ご存知だったんですね」
「当たり前だろう。助手の動向は逐一把握するものだ。お前の探求の道が絶たれるようなことがあれば困る」

 その一言にむず痒くなりつつも、師匠の手から小瓶を受け取る。ガラスが分厚いぶん液量は少なく、一口二口程度といったところか。

「それはポーションに類する回復薬だ。一度きり致命傷を癒し、生命力を増幅させ、魂までも繋ぎ止める」
「えぇっ!? すごいじゃないですか!!」
「だが、一度きりだ。一回分しか用意できなかったのもそうだが、同じ人間には二度と使えん。健康体にまで回復するほどの効果はなく、半日ほど経てばしばらく動けなくなる副作用もある。全く、もっと時間があればさらに完成度を上げられたものを……」

 思わず落とさないようにとぎゅっと小瓶を握りしめる。上目がちに師匠の顔を見れば、その目には隈ができていた。体力切れで床に倒れ込むほど研究にのめり込むようなことは、ここ最近ほとんどないと聞いていたのに。本当にしょうがない人だ。

「……ありがとうございます、師匠! いざとなったら遠慮なくぐいっといきますね!」
「使わんに越したことはないと言っただろうがこの助手め!」
「助手って罵倒語だったんですか!?」
「そんなわけがあるか! お前は私の最高の助手だこの馬鹿!」
「馬鹿って言った!!」

 ぎゃいぎゃい言い合うわたしたちの声に混じって、ため息と笑い声が聞こえたような気がした。
 
     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
「――――……」

 声がかすれる。全身が痛くて重くて、遠い空がぼやけている。
 目の前を通り過ぎる数々の思い出のうち、最後に過ったのが出発前の師匠とのやりとりだった。
 かつてわたしの言葉なんて聞こうともしていなかった彼が、お前はどうだったと、問うた。悔しいと言いながらも満足そうで、最後の力をかけてわたしに手を伸ばして、信じられないほど穏やかな顔をした。

「…………ぅ」

 わたしの身体はまだ動く。
 無様に這って、その手を掴んで、彼の体躯の上に倒れ込む。懐には師匠の魔法薬。

「……ぐ……ぁ」

 愉しかった。愉しかったとも。きっとこれが最高の終わりだ。わたしの命はこれで燃え尽きる。わたしがここで武器あなたの手をとることを選んだ結末だ。わたしの全てが焼け崩れて、いっそ清々しかった。かつて自ら命を絶ったあなたも、今このときのあなたも、同じ気持ちでいたのだろう。
 最期にあなたが問うならば、わたしも最期に答えよう。

「ん……く、」

 魔法薬を彼の口に注ぐ。師匠は世界一の錬金術師だ。きっとこの薬は彼の命を繋ぎ止めてくれるだろう。それがわたしの答えだ。
 ああ、そうだ。
 腹立たしいほどに愉しかったし、それを為したあなたのことが憎らしい。わたしはあなたに振り回されてばかりだった。とうとうこんな天の果てで二人きりになってしまった。
 これはそんなわたしからのお礼であり、仕返しなのだ。
 数瞬の間だけ時を止めていた心臓が、ゆっくりと鼓動を取り戻す。わたしの鼓動と重なっていく。命の灯が再び揺らめく一方で、わたしの身体はいっそう重くなっていく。
 あなたとここで朽ちていくのは構わない。それでも一緒に朽ちてはあげない。このまま満足には逝かせない。
 はふ、と笑いがただの息になって宙に溶けた。
 わたしはこのまま死ぬだろう。そしてあなたは生きながらえる。わたしの骸を前にあなたが何を思いどんな顔をするのか、星海から眺めるのが楽しみで仕方ない。
 あなたが執着するものがわたしだけだったのは、他でもないわたしが知っている。あなたはここから還れない。道を作るほどの想いを持っていない。
 ――ここで、独り。死ぬまでずっと、わたしのことだけを考えていればいい。
 わたしとあなたは友達なのだから、これくらいはかわいいイタズラとして許してほしい。

「…………ぁ……」

 瞼が重い。眠くて仕方がない。左の角を彼の胸に擦り付け、狭くぼやける視界に意識を移す。青く小さな光がきらめくのが見えた。彼と偶然出くわしたあの日、出来の悪いチョーカーを押し付けたのだったか。
 終末は退けられて、暁のみんなもきっと無事で、心はどろどろに燃え落ちて、思い残すことなんてないはずなのに。いよいよという時になってあれもこれもと思い浮かぶ。
 もっといい作品を作りたかった。もっと師匠に教わりたかった。第一世界、ドマやアラミゴ、イシュガルドの行く末だって見届けたかった。ああ、イシュガルドといえば、ラハくんに案内する約束、守れないのが悲しかった。機工房の手伝いだってしたかった。
 そして、まだわたしの見たことのない世界があることが、どうしようもなく悔しかった。

「……ぉ、と……ぼ、けん……したか、た……なぁ……」

 伝わる鼓動がわたしのそれとひとつに重なって、わたしの中に響き渡る。それがどうしようもなく心地よくて、重くのしかかる衝動のままに瞼を閉じた。

『――ピ、ピ――』
 
     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 今夜のレヴナンツトールはやけに静かだなあと、重い『荷物』を抱えて素知らぬ顔で呟く。
 結局わたしは生き延びて、暁のみんな……もとい、アリゼーからの大目玉をくらった。余計なことをしなければここまで怒られずに済んだのではと思わないでもない。それでも、後悔はなかった。
 暁の血盟が表向き解散し、麗しの受付嬢タタルさんが管理することになっていた石の家。人気のない深夜、わたしは出入り口の外に荷物を置いて、そこに足を踏み入れた。
 かつて、魂だけが第一世界に渡ったことで、昏睡していた暁のみんなを看病していた部屋……の、さらに奥。厳重に閉ざされた扉の先に、わたしは用があったのだ。
 実際に中に入るのは初めてだけれど、鍵の場所は知っている。暗闇の中それを手に取って、いくつかの鍵を解除し、扉を開く。

「こんばんは、ゼノスさん」

 蝋燭の炎が揺らめいて、鮮やかな金髪を照らしている。わたしの気配を感じ取っていたのだろう、ベッドの主は身体を起こしていて、軽装の下には包帯が幾重にも巻かれていた。動き回れないように、あえて不十分な治療をしているらしい。

「……来たか」
「ええ、来ちゃいました」

 自分が死ぬという前提で、半ばやけっぱちの『仕返し』を敢行した結果、こうしてわたしたちは二人とも生き延びてしまった。そのことが事態をややこしくして、ひとまず彼の存在はラグナロクに赴いたメンバー、それからクルルさんとタタルさん以外には伏せられている。看病と幽閉を兼ねたこの部屋で、彼はひとりで過ごしている。
 彼をこの部屋に留めているのは、わたしが生かした、ただその一点の事実のみだ。
 ベッドの淵に腰掛けて、それでもなお高いところにある彼の瞳を見上げる。ここでひとり、何を考えていたのだろう。自分がまだ生きている理由とかだろうか。
 あのとき、わたしの声は枯れていたし、内心を口にした覚えもない。けれどあそこは想いが全てを為す場所で、みんなの想いも確かにわたしに届いていた。果たしてわたしの想いが彼にどこまで伝わっていたのか、知れたものではない。気まずさに一度視線を逸らした。

「……わたし、あなたを死なせるつもりはありません」
「…………」
「覚えていますよね。アラミゴの空中庭園で、龍となったあなたと戦って、わたしが勝ったこと」
「……ああ」
「あのとき、わたしやリセさんが止めようとしても構わずに、あなたは首を切りました。自分ばっかり満足して。わたしたちは、……わたしは、逃げられた、と思いました」

 今でも思い出せる。まるで生前愛された人の棺のように、美しい花の中に斃れた彼の姿と、わたしに降り注いだ生温かい血の感触。

「あなたったら、あのときよりもっといい顔をしてたんですよ。そんなの、そんなの……うん」

 再び頭上の碧眼を見据える。自然と口角が上がるのがわかった。

「…………今度は逃がしませんからね」

 碧眼が僅かに見開かれた。愉しそうに、満足そうに笑う以外に初めて人間味のある表情を見た気がして、わたしも思わずきょとんとする。

「な、なんですか」
「……随分と英雄らしからぬ顔をしていたな」
「えっ!!」
「だが……」

 気づけば大きな手がわたしの頬に伸びていた。わたしの顔なんて簡単に握りつぶせそうな掌がわたしの髪と鱗とを覆い、太い指が唇をなぞる。金の髪が僅かな灯りすら遮って、瞳だけが爛々と光っている。

「俺はずっと、お前のその眼差しが欲しかった」
「…………たのひほうれなによいれふよ」

 一体どんな顔をしていたのやら、自分でもわからなくて不安になってきた。彼が何を求めていたのかを思えば、ひょっとすると目の前の相手と同じ目をしていたのかもしれない。もしそうだとしたら、もうとっくのとうに手遅れなのだろう。
 そのことから目を逸らすように、一旦それらを忘れることにして、何故かわたしの顔を弄り続けるその手を掴んで向き直る。

「さて、こんな話をするためだけにここに来たわけじゃなくてですね」
「ほう、何だ。ついに俺の沙汰でも決まったか?」
「それはまだ。というか、決まる前にと思って来ました」

 これからわたしがやることは、今までわたしが関わってきた人たちへの裏切りと言われても仕方ないだろう。けれど冒険者とは本来強欲なものだ。求めるものがあるのなら、我を通してそれを掴み取らずにどうするのか。
 今度はわたしが、彼の両頬に手を当てて笑う。

「逃がさないとか言って早々あれですけど……一緒に逃げましょうか!」

 答えを待たずに慣れない賢具を取り出して、傷だらけの身体に手を翳す。わたしの弾丸や刃や魔法で穿たれた傷が、少しずつ治っていく。今は動ける程度に済ますし、多少の跡は残るだろうけど、どうせピンピンとしてまた武器を握れるようになるだろう。

「…………」

 彼は黙ってそれを受け入れている。これからわたしが何をしようとしているのか、きっととっくに察しているのだろう。それでも少し、意外そうにしていた。
 ここを出る前に適当な武器で扉を壊しておくことも忘れない。思ったより大きな音がして焦ったけれど、外まで物音が届かないことを信じたい。

「そうそう、これ飲んどいてくださいね」
「…………何だ、これは」
「飲んでから聞くんですか……まあ、解毒薬、みたいな?」

 びっくりするほど重たい彼の身体を支えつつ、石の家を出る。扉の横に置いていた香炉を抱え上げて、あらかじめ用意していた機体に二人で乗り込んだ。香炉はここからじゅうぶんに離れてから処分するつもりだ。

「いよいよ英雄とは思えぬ所業だな?」
「人聞き悪いですねぇ。近隣の皆さんに安眠をお届けしてるだけですよ」

 レヴナンツトールを出るまではゆっくりと、その後はわたしの拠点のあるイシュガルドへ向けて一気にエンジンをふかす。さっきまでの澱んだ空気とは裏腹に、冷たい風が心地よかった。

「連れ出すと見せかけてこのままどこぞに引き渡されたとて、俺は一向に構わぬが」
「しませんよそんなこと。これはわたしの独断で、ずっと、誰にも秘密です」

 前方に障害物はない。少し後ろを振り返って、視線を交わす。

「今のあなたには、終生の友としてそばにいてほしいと思いまして」
「…………フ、」

 彼は、ゼノスさんは、目を閉じて笑っていた。