我が愛しき友の肖像

 光の乏しい灰色の空の下、土埃にまみれたキャンバスの中であっても、それはどうしようもない鮮やかさを以て目に飛び込んできた。
 瓦礫をどかして、埃を払い、それでもなお薄汚れて、いくらか傷もついている。打ち捨てられたその一枚を、わたしは放っておくことができなかった。
「リノ? どうかしたかい?」
「……ああ、いえ。なんでもないです」
 つい呆けてしまっていたらしい。声をかけてくれたアルフィノには笑みを返せば納得してくれたようだった。
 ちょうど持っていた柔らかい布で丁寧に包んでいく。運び出す瓦礫の中に紛れ込ませるように、それをそっと立てかけた。
 
 *
 
「んー……よし! これでどうかしら」
「ばっちりです! ありがとうございます、トゥナさん」
「ううん、私も久しぶりにリノさんと作業ができて楽しかったわ。リノさんの作ってくれた塗料や薬剤も助かっちゃった」
 クリスタリウムのミーン工芸館。絵画の修復をどうしようかと考えたとき、頭に浮かんだのが時の工房のトゥナさんの顔だった。
 わたしの目の前に、一枚の肖像画が立てかけられている。ついでに拵えた額縁の中で、わたしを友と呼んだひとが無愛想な顔で頬杖をついていた。
 ガレマルドの復興を手伝っていた折、わたしは瓦礫の中でこれを見つけた。帝国皇太子の肖像画としてはいくらか小ぶりで、おそらく何枚もあるうちの一枚なのだろう。もっと立派なものが魔導城のどこかにでも飾られているのかもしれない。
 最初にこの絵を見たとき、「こんな顔をするのか」と思った。絵の中の彼——ゼノスさんは、こちらに視線を向けていない。それでいて凍りつきそうなほどに冷たい眼差しをしていた。わたしの記憶の中のゼノスさんは、いつだって——少なくともわたしにその顔を見せてくれていた間は——わたしを見ていて、ある種の熱すら宿していた。
 この絵にはそれがなかった。何もかもが退屈で、失望して、諦観に満ちたような。それが皇太子としての彼の姿のように見えた。
 なんて寂しいひとなのだろうと思っていたのは、やはり間違っていなかったようだった。
「……ねえ、リノさん。聞いてもいい?」
「あ、えっと、なんでしょう」
「その絵の人、リノさんの大切な人なの……?」
 その問いを聞いて、瞳がぱちくりと瞬いた。たいせつな、ひと。ゼノスさんを表すにはズレた表現に思えて、すぐさま否定したかったのに、喉を震わすことすらうまくできない。
「——どうしてそう思ったんですか?」
「あっ、違ったら申し訳ないんだけど……リノさんの顔がね、そういうふうに見えたから」
 思わず自分の頬を触る。そんなわたしにトゥナさんは優しく微笑んで、それから肖像画に目を向けた。
「私ね、リノさんが元の世界の仲間や、水晶公の話をしているとき……とても楽しそうで、羨ましいくらい仲が良いんだなって思ったの。でも……」
『ピピ……リノの表情筋データ、類似の例を検索……夫を亡くしタ、未亡人!』
「こ、こらぁ! 失礼でしょ、もう!」
 相変わらずのやり取りに、くすりと笑いが溢れる。未亡人というのは、まあ、なんというか、置いといて。
「んんっ! ……その、ね。リノさんがその絵を見てるときの顔はそれとは違って……愛おしそうというか、慈しむというか……でも、すごく寂しそうで。だからそういうことなのかなって、思ったんだけど……」
「…………そう、ですか」
 そう見えたのなら、そうだったのだろう。
「……友達、でした。うん、友達……」
「そう、なのね」
「はい」
 それっきり、トゥナさんは何も言わなかった。
 
 *
 
 わたしはトゥナさんと実録システムにお礼をして、肖像画を綺麗な布で包んで持ち帰った。自宅の地下、一番奥の壁に飾り付けてから、何やってるんだろうなあ、とひとりごちる。
 肖像の額縁をそっと撫でる。ゼノスさんが身に纏っていたコートの意匠を思い出して彫ったものだ。目を閉じればいつだって、あの日の戦いを思い描くことができた。
 ゼノスさんはわたしを友と呼んだ。わたしにとっても、そうだった。それはもはや疑いようもない。
『——愛おしそうというか、慈しむというか……でも、すごく寂しそうで——』
 長い旅路の中で、友と呼べる人を失ったことは少なくない。その度に心にぽっかりと穴が空いて、その人との楽しい思い出で埋めていくように努めてきた。
 敵として立ちはだかった人を討ち果たし、見送ったのだって記憶に新しい。そうやってわたしは前に進んできた。
 そのどれとも違うこの気持ちは一体何なのか、ずっと目を背けてきた。新たな冒険に足を踏み入れても、どれだけ前へと進んでも……進もうとしても、決して絡みついて離れない、これは……
「……あ……」
 気づけば、目頭が燃えるように熱かった。涙が溢れて、ぽたりぽたりと落ちていく。
「……ぁ、あ……」
 口元を覆ってもなお嗚咽が漏れ出す。こんなもの持ち帰らなければ、いや、見つけなければよかった。そうしたらこうも心をめちゃくちゃにされることなんてなかったのに。それでもわたしはもう、この絵を手離せない。
 肖像画を見上げる。わたしのことを見ていない。見てはくれない。
「ほんっとに……どうしようもない……!」
 頬を歪めて自嘲しながら、もう一度、額縁を撫でた。
 彼はやはり興味のなさそうな、退屈そうな顔をしていた。