クレアデルネ

――――いつもその御髪を夜のような色だと思っていた。

莉乃
 ここには人工の光がない。白熱電球のあたたかな光すらなく、日の光が差し込むはずの窓はカーテンで閉ざされている。必要ないからだ。今の私は夜目が効くから。日の出ている間私は眠っているから。……そして、私に日の光が、毒だから。
「カーズ様」
 そう呼ぶように言われたわけじゃあないけれど、何となくそう呼ぶようになった。私達の関係はそういうものだから。
 『石仮面』というカーズ様のお作りになった不思議な仮面で、私は人間から吸血鬼になった。吸血鬼、人の血を吸う怪物。どういう存在かは知っていたけれど、まさかカーズ様が人を吸血鬼にする手段を持っているなんて、そして自分が吸血鬼になってしまうだなんて、思ってもいなかった。
 でも、これでよかった――と、思えるかどうかはまだ分からないけれど、カーズ様が望んだことならば、きっとそれでいいのだろう。それに、きっと人の身のままじゃあ、いずれカーズ様のお傍にはいられなくなるだろうから。
「変わりはないか」
「ええ、大丈夫です」
 カーズ様に連れられてこの部屋に住むようになってから、カーズ様は毎晩顔を出してくださる。日が落ちてから昇るまで、そうして一緒に過ごすのだ。もちろん、そこに明かりは灯されない。私達を照らすのは、カーテンが開かれた窓から差し込む、月と星の光だけ。
 闇に溶け込む夜色の御髪が、月の光をほのかに反射して光っている。浮かび上がる肌は今日も変わりなくきめ細かい。
 夜の下のカーズ様を、私は美しいと思っていたけれど、陽の下のカーズ様をこの先一生目にすることができないと思うと、残念で仕方ない。手に入れたものと失ったものは、きっと等しいのだ。
「そうか。……今日の食事だ」
 カーズ様が毎日届けてくださる、器に入れられた血液が、誰の血なのか私は知らない。人の血なのか、それとも獣の血なのか。ただ、一口飲むごとに喉が焼けるようで、それでいて後から芳醇な香りが鼻を抜ける。正直言って血液がこんなにも美味しいとは思わなかったけれど、思えば吸血鬼にとって主食なのだから美味しく感じるのは当然なのかもしれない。日を追うごとに味が良くなっていくような気がするのは、私が吸血鬼の身体になじんでいっているからなのだろうか。
 器を受け取って一口飲むと、身体がカッと熱くなるのを感じた。度数の高いお酒を飲んだらこんな感じなのかもしれない。お酒は飲んだことがないから実際のところは良く分からないけれど、きっとこの血を超えるお酒は存在しないんじゃあないかと思う。
 ベッドに腰掛けて血をちびちびと飲む私を、カーズ様が見下ろしている。少し視線を上げてみると、その口元には薄い笑みが浮かんでいた。月の光がカーズ様を照らしている。初めて月夜の下でカーズ様を目にした、そして私が人間をやめた、あの日のことが思い出された。
「美味いか?」
「はい、とても」
「……それは何よりだ」
 カーズ様の笑みが深くなる。何となく恥ずかしくなって残り少なくなった血液を一気に飲み干すと、さすがに刺激が強かったのか身体がくらりとした。カーズ様に抱きとめられながら、床に落ちた器が割れる音を聞いた。
「す、いません」
「構わん。これからはゆっくり飲むんだな」
 抱きすくめられたままの身体が後ろに倒れ込む。押し倒されたのだと認識すると同時に口づけが降ってきた。はじめは恥ずかしくて仕方なかったのに、今でははしたなくも求めてしまうのは、あの血の味と香りを思い出して欲してしまうからなのかもしれないと自分をごまかす。
「……まだ、無理そうか」
「えっ?」
「いや、」
 近くで小さく呟かれた言葉は、鋭くなった吸血鬼の聴覚でなくても拾えていただろう。気にするなとでも言うように二回目の口づけが降ってくる。しばらくすると唇が離れて、カーズ様が私を見下ろす気配を感じた。
「追々、な」
 夜の御髪の帳が私を覆い、月の光は遮られる。目を開ければ、血色の瞳だけが輝いていた。
 あの血の芳香が、また少し強くなった。