あれは、桜が綺麗だなあ、なんてぼうっとしながら歩いていたあの日のこと。
「……いっ!?」
よりによって玄関へ続く道のど真ん中で小石に躓いて、膝をついた時に擦りむいてしまったあの朝のこと。
「……くすっ」
「君、大丈夫?」
「…………はい。平気、です」
同じ制服の生徒に笑われたり心配されたりするのが、何だか惨めに感じて……半泣きのまま玄関へと急ぎ、そのまま保健室へと駆けこんだ、あの時のこと。
「失礼します、あの、膝を擦りむいてしまったのですが……」
私は生まれて初めて、胸を貫かれるかのような衝撃を知った。
私の通う高校の特別科には、やたらと国際色豊かで変わった人達が多い。くるくる巻き毛のアメリカ人の理事長にはじまり、生徒も先生も国籍は様々で、中にはまさに国際的な血筋を持つ人も少なくない。そしてほぼ例外なく、特別な力を持っている。
ひとつは、“スタンド"。DIO先生の言葉を借りると、『生命エネルギーが作り出すパワーある像(ビジョン)』で、それぞれが特殊な能力を持っている。特別科の中で一番人口が多いのが、このスタンド使いだ。そして少数派ではあるけれど、“波紋"という不思議な力を持つ人達もいる。生徒でこれを扱える人はジョセフ先輩とシーザー先輩の二人しか知らないけれど、先生にはちらほらと見受けられる。
他にも、鉄球の技術というものを身につけている人や、存在自体が特殊な人、というのもいたりする。ほんの一握りだけ、特別な能力のない普通の人もいるけれど、そういった人達も含めて、皆個性豊かだ。理事長が一部の先生方と協力して“そういう人達"を集めたのだというのは、この学園の特別科の人間なら誰もが知っている話である。かくいう私もその中の、スタンド使いの一人だけれど……一般家庭育ちの一般人の私にとっては、誰も彼もが一癖も二癖もあって、圧倒されてしまうことが多いのが悲しいところだ。まあ、だからこそ楽しい、というのも否めないけれど。
そんな私の高校には、飛びぬけて異質であって、そして大層恐れられている保健室の先生がいる。
もし授業を受けるとしたら難しすぎてむしろ分からないだろうなあなんて思ってしまうほど頭がよくて、研究者肌の天才。それでいてその身体はまるでギリシャの彫刻のように逞しく、神々しくて美しい。
人間とは別の種族の生まれで、万単位の年月を生き、元々苦手としていた太陽の光の克服をずっと目指していて、ついにそれを成したひと。
それからもともとは天敵だった“波紋"を使うことができて、怪我なんて簡単に治せてしまう。お医者さんになってもいいと思うけれど、養護教諭としては素晴らしい力だと思う。
にも関わらず、生徒はもちろん一部を除いた先生方でさえ、保健室に近づこうとする人はいない。怪我をしたら同級生の東方くんやジョバァーナくん、同じく“波紋"が使えるジョナサン先生達に頼み、具合が悪くなったら大人しく早退するか校内レストランのトニオさんのところに駆け込むのが通例だ。(トニオさんの料理は相手によってメニューが変わるから、理事長が学食とは別に彼のためのレストランを設けている)なんでもその昔、先生が“つい"怪我の治療に来た生徒を食べてしまいそうになったり(そのままの意味である)"うっかり"波紋の出力を強くしすぎて身体を溶かしてしまったり(ご愁傷様だ)といったことがあったらしい。それでも相変わらず保健室の先生としてこの学校に居続けていらっしゃるのは、理事長が先生を手放したがらなかったのと、皆が先生を避けることでむしろ問題が起こらなくなったから、だそうだ。
以上、私がとある筋から得た情報だ。
「――この頃から形成された寡占組織として、カルテル・トラスト・コンツェルンが挙げられる。訳せば企業連合・企業合同・企業連携だな。これらの違いは――……」
カーテンを閉め切り、窓を塞ぎ、蛍光灯の光だけに照らされた教室で、完全防備のDIO先生が何やら難しい話をしている。まあ後でノートと教科書を見返せば赤点取ることはないだろうなんて思いながら、最低限の板書が書き写されたノートの隅のスペースと、私はにらめっこを続けていた。雑多に単語が書きだされた余白に、シャーペンがぽつぽつと点を落としていく。
――体育、マラソン、古典、竹取物語、夜、星、オリオン座、白い息、手袋……
やがてその単語の集まりのひとつに丸をつける。そこから反対側のページの余白に線を引っ張って、またにらめっこが始まった。ちらりと時計を見上げれば、あと三十分ほどで休み時間だ。いつもの授業を考えるともう板書はないだろうけど、早くまとめてしまわないと。
――望遠鏡……夜空……切り取って、広がって……
しばらく頭の中でそれらを組み立てて、よし、と一息ついた。時計を見ればあと十五分残っている。もうノートに書くことはないし暇つぶしにと、スカートのポケットの中に入れっぱなしだったコインを取り出して、教壇から見てペンケースの陰になるだろう位置に置く。それをつんと突けば、私の中の『彼女』がコインの中へと入りこむのを感じた。コインはひとりでに起き上がり、くるくると駒のように回転を始める。
こんなことに使っているなんて、昔の私が知ったら驚くだろうか。思わずくすりと小さな笑いが零れた。
「む、終わりか……今回はここまでだ」
DIO先生の話を聞き流しながらコインを動かして遊んでいるうちに、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。日直の声で一礼した後、DIO先生が日傘を持って教室を出ていく。扉が閉まると、窓際の生徒がこぞってカーテンを開けにいった。日差しが少し目に眩しい。
開いていた教科書とノートを急いでしまってから、お弁当の包みを取り出す。今日は大切な日と決めたから、急がなくちゃあならない。けれど私の肩を後ろから誰かがつついたので、私は反射的に振り返った。
「トリッシュさん?」
「お疲れ様」
華やかな顔立ちに笑みを浮かべたトリッシュさんが、後ろの席から身を乗り出していた。
「ねえ、あなたって毎日休み時間どこにいるの?」
人付き合いがあまり得意でない私にも、とうとう放課後や休みの日に喋ったり遊んだりするくらいの友達ができた。それがトリッシュさんだ。けれどそんな友達と、私は一回も学校で一緒にお昼ご飯を食べたことがない。
「ずっと前からお昼にはいつもいなかったでしょう? 前から気になってたの」
「そう、だったんですか」
「たまには一緒に食べない?」
そう言って笑うトリッシュさんに、私は苦笑いしか返せない。例え友達でも、どうしても譲れないことはあるのである。そしてできれば、いや一刻も早くここを出たい。少し大きめのお弁当箱は、しっかりと腕の中に抱えられている。
「……すいません」
「もう……まあいいわ。ふふ、もしかして彼氏とか?」
「ノーコメントで」
「あら、残念ね。ところで、さっきはぼーっとしてたみたいだけど、今度のテスト大丈夫なの?」
「うっ……だ、大丈夫……です」
「ふーん……あ、そうだ。今度の休み埋め合わせしてくれたら勉強教えてあげるわよ」
「ほんとですか? じゃあ、駅前に新しくできたクレープ屋さんはどうです?」
「あっ、そこ前から行ってみたかったの! 絶対よ?」
「約束です。じゃあ、私はこれで」
そっけないと、付き合いが悪いと、思われてしまうだろうか。さっさと教室を出て行ってしまったのも感じが悪かったかもしれない。その分今度とことん付き合わなくちゃあなんて考えながら、だんだん人気のなくなっていく廊下を歩く。冬の廊下はとても寒いけれど、足取りは軽い。向かう先は、保健室だ。
私が毎日ここを訪れていることは、誰にも話したことがないし、誰にも知られないようにしてきた。
知られては、いけない。
「……失礼します」
扉の前に在室の表示があることに安堵し、いつものように挨拶して部屋に入る。顔を上げると、いつも通り、白衣姿の先生がデスクについて本を読んでいらしていた。たまに服を着るのが煩わしいのか褌に白衣というスタイルでいることもあるけれど(それはそれで眼福なのだ)今日は黒のシャツにネイビーのパンツという出で立ちだ。ああ、相変わらず麗しい。
「こんにちは、先生」
「ああ」
保健室に来る女子生徒なんて、きっと私ぐらいしかいないだろう。先生はとても見目麗しいから密かに人気があることは知っているけれど、近づこうとする人はいない。私だけ。私だけが、こうして先生と二人でこの保健室という小さな空間を共有できる生徒なのだ。そのことを思うたびに甘美な昂揚感が私を支配する。もし私以外の女子生徒、あるいは女の先生が先生とこの部屋で二人きりになろうものなら、私は嫉妬に狂ってしまうだろう。(一人そんな度胸のある先生がいるけれど、あの人は既婚者だし、何より仲が最悪らしい。……それでも心配だけど)
誰にもと言ったけれど、一度だけ、うっかり保健室に入るところを見られてしまったことがある。その時彼女はこう言って、秘密にすることを約束してくれた。
――『このことは絶対に他言はしないわ。好きな人を独占したいのは当然のことよ』
――『でも、正直言ってあまり趣味がいいとは言えないわね』
――『やっぱり恋人は優しい人がいいと思うの。そう、康一くんみたいに……』
本当は、先生はこんなにも素敵な人なのだと、声を大にして叫びたい。分かってほしい。けれど、もし、私がこうして保健室に来ていることを他の人に知られてしまったとしたら。それは、私という前例ができるということだ。保健室に来ても大丈夫、先生に近づいても大丈夫――それを身をもって示すことになってしまう。人のことは言えないけれど、本当は先生の見目からなる人気だって厭わしい。先生の魅力を、お人柄を知っているのは、やっぱり私だけでいい。
私は先生に、初めての恋をしている。
「先生、今日のおかずはクリームコロッケと鶏の唐揚げです。いかがですか」
「いらん」
「そうですか」
これっぽっちじゃあへこたれない。私は先生が人間ほど頻繁に食事を摂らなくてもいいことを知っているのだ。それにたまに、本当にたまに貰ってくれることもある。……ふと、先生は食事を摂っていらっしゃるのだろうか、と思った。一年間は食べなくても活動できるとおっしゃっていたけれど、私がここにお弁当を持ちこむようになってからまだ一年も経っていなくて、そして先生がここに勤め始めてから何年かは経っているわけで、その間先生は食事をどうなさっていたのだろう。本来の食事である人間や吸血鬼を、というのはリサリサ先生達が許さないだろうから、やっぱり人間と同じものを摂っているのだろうか。この学園には職員も利用する学食や、とても優秀なシェフであるトニオさんのレストランがある。私も東方くんに勧められて一度だけトニオさんの料理を食べたことがあるけれど、色々凄かったのが印象に残っている。何より、とても美味しかった。あの料理を、先生も召し上がったことがあるのだろうか。それに比べれば、私の手料理なんて――いや、考えるのはやめよう。例え小腹が空いたとか口寂しいといった時にちょうど私のおかずがあったから貰っておいたとか、そんな切ない理由であっても、貰ってくださるだけで十分なのだから。
ひとまず気を取り直して、色合いが先生を連想させるという理由で買った紫と赤の巾着袋からお弁当を取り出す。視線を上げると、壁にかけてある仮面と目が合った。少し前から見かけるようになったそれは石を彫って作られたのかごつごつとしていて、私物が少なく清潔感のある部屋の中では明らかに異彩を放っている。見た感じ、というかさすがに先生がつけるためのものではないだろうから、単に先生が趣味で飾っているだけなのだろうか。そう思って以前、あれは先生のご趣味で、とお尋ねしてみたけれど、先生の返事はあまり歯切れがよくなかったというか、趣味と言われてみれば確かにそうだ、みたいな感じだった。ただ、笑いながら答えていたのは覚えている。
「電子レンジ、お借りしてもいいですか」
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
ここでお昼を食べるようになってしばらくした頃、いつも私だけが一方的に喋るという会話の中で一回だけ、やっぱりご飯はあったかい方が美味しいですね、と零したことがある。その時は、ではこんなところに来ずとも学食を使えばよかろう、と返されたので慌てて否定したけれど、翌日には保健室に新品の電子レンジが設置されていた。私がお礼を言ったら先生は、俺が必要だから買ったのであって貴様のためじゃあない、なんておっしゃったけれど、きっとこの電子レンジを使っているのも私だけだ。多分。ともあれ、やっぱり先生はやさしい。この恋に見返りなんていらないけれど、それでも先生が心を開いている、エシディシ先生達に向ける類の感情を、一欠けらでもいいから私に向けてほしいと思ってしまうのは、きっと傲慢なのだろう。でも、嬉しいものは嬉しい。
先生は無口で無愛想な人ではない。一度話し出せば饒舌だし、たまに私に対して意地悪な返しをしてくる時なんか、大層楽しそうにニヤニヤと笑っていらっしゃる。そんな意地悪い笑みで見下されるのが堪らなく好きなのだから私も大概病気だ。ただ、私はもともと何かを話すということが得意ではないし、物事を深く考えられる頭もない。その意地悪な言葉に対して下手な返しをすると、先生に呆れられてしまう可能性があるので、やっぱりほどほどにしていただきたいと思う。私の声が先生の鼓膜を振るわし、先生の思考の一部でも私の言葉が支配し、私のために返された先生の声が、言葉が、私の鼓膜に届き脳内を満たしていく。それだけで十分幸せなのだ。
――『……下らん。このような話に何の意味があるというのだ』
――『会話の内容ではなく、会話すること自体に意味があるのだと、私は思います』
ふと、春も終わりという頃に先生と交わした言葉が思い出された。私にとってはまさしくその通りなのである。煩わしいと思われても、嫌われてしまっても、あの時の私には先生と一緒の空間を共有して、お話をすることが大事だった。しかし先生に対してつまらない話ばかりするわけにもいかないというのも事実。そういうわけで、私にとって先生との(一方的な)会話は最重要事項だ。そのため、前回先生とお話した後からの出来事、前の日の午後からその日の午前にかけて、少しでも先生の興味に触れそうな話題を、午前最後の授業中、毎日必死に吟味するのだ。相槌以外の反応が貰えることは少ないけれど、最近返事というか、意見というか、とにかく私にとってはありがたく尊いお言葉が頂けることが多くなってきたから、それが欲しくて私はたくさんのことを話し続けている。質問の体を取れば一応答えてはくださるけれど、くだらんことを聞くな、なんて言われちゃうことがほとんどだから、その辺は慎重に、だ。
でも、今日用意してきた話題はひとつだけ。いつも最初の話題を話す、お弁当があたたまるまでの二分間。私はDIO先生の政治経済そっちのけで選び抜いてきた話題を話し始める。
「昨日は晴れていて、星空がとても綺麗だったんですよ。私、星が……というより夜空が好きなので、お小遣いを貯めていつか天体望遠鏡を買いたいと思ってるんです」
「……ほう、そうなのか」
「ええ、そうなんです。でも、筒から覗く狭い夜空と、地上から見上げる一面の夜空じゃあ、後者の方が綺麗に感じるんじゃあないかって。私は見るのが好きなだけで、詳しくなりたいわけではありませんから……でも、やっぱり望遠鏡で星を見たことってないから、気になるものは気になるんです。ところで先生は昨日の星を見ましたか?」
「いや、生憎ロマンチストではないのでな。綺麗だなんだとかいう興味はないし、好んで見上げなどしない、が……望遠鏡などなくとも星はよく見える。人間が視認できる以上に夜空というのは星で満たされている。なかなか圧巻だぞ」
「……いつも思いますけど、先生ってやっぱりすごいですね。私もそれくらいの視力が欲しかったです……」
「人間風情が驕るんじゃあない。これはこの俺だからできることなのだ」
「ないものねだりくらいさせてくださいよ。あ、そういえばこの前英語の授業で知ったんですけど、ないものねだりって英語で"Cry for the moon"っていうらしいですよ。なかなか詩的ですよね」
温め終わったお弁当を取り出して、保健室を訪れた生徒のためのテーブルにつく。ここで食事なんてとっているのもきっと私だけだ。先生にはご自分のデスクがある。
「月が欲しいと泣き喚くか。確かに的を射ているな」
「でしょう?」
いただきます、と手を合わせて、お弁当を食べ始める。短い休み時間、少しでも時間は惜しいけれど、口にものを入れながら喋るなんて行儀の悪いことはしないし、できない。その代わり、ちらりと先生のお顔を盗み見る。
先生には男らしい美しさがある。顰められていても魅力的な柳眉。切れ長のルビーの目を縁取る長い睫毛、メイクではないらしい瞼を彩るラベンダーブルー。すっと通った鼻筋。時折口元から覗く白い牙や赤い舌には思わずドキリとしてしまう。肌も白くてきめ細かいこと。癖のある長髪は艶めいていて、それが風に靡く光景を想像しては溜息をつく。
陽光の下にいる先生にも眩い美しさがあるけれど、きっと夜の先生にも違った魅力があるのだろう。その御髪は闇に溶けて、月の光が先生の白い肌を照らす……想像しただけでぞっとするほど酔いしれてしまう。しかし想像はいつでもできることなので、私は目の前にいる先生に意識を戻した。……やっぱりかっこいい。美しい。イケメンだなんて表現するのが失礼になってくるレベルだ。
きっと私の視線ぐらい先生は気が付いていらっしゃるだろうけれど、それでも私は悟られまいとするように、あくまでもこっそりと先生を見つめるのだ。
私の先生への気持ちが"美しいものへの憧れ"から"恋"に変わった――あるいはそれが"恋"なのだと自覚したのは、夏休み明け、久しぶりに先生にお会いした時だ。あの日、先生は初めて、ご自分から私に質問を投げかけた。
「貴様のスタンドはどういったものなのだ?」
先生はスタンド使いではないからスタンドは見えないというのは早くに人から聞いていた話だった。ただの興味だったのだろうけど、それでも先生から話しかけていただけたというのに、私は手放しで喜ぶことはできなかった。
あの時の私は、自分のスタンド能力が好きじゃあなかった。
「……キャンディ・O」
その名を呼べば、隣に私のスタンドが現れる。半透明の球体の中を飛び回る、妖精のようなスタンド像。先生の目には映っていないだろう。
「それが名か」
「はい。その……私のキャンディ・Oは、"まるいもの"に取り憑いて、自由に操ることができるんです」
円盤だろうが球体だろうが、とにかくそれが"まるいもの"ならば取り憑いて操ることができる――それが私のスタンド能力だ。この学園に入ってからは周りにスタンド使いがごろごろといるけれど、それでも以前は私だけが持っている特別な力だったのだ。
「先生、私、中学までテニスをやっていたんです」
「……それで?」
「体育のバスケも、バレーも……私はそんなに運動神経はよくないし、体格にも恵まれていないけれど、とても……楽、でした」
ここまで言ってから、ぎゅっと拳を握りしめた。それは一種の懺悔のようなものだった。こんな汚い私が先生に知られてしまったら、嫌われてしまうかもしれない……そんな不安はあった。けれど私はそれよりも、先生の言葉が欲しかった。先生ならばどんな答えをくださるのか、それが知りたかった。
「ボールは私の打ちやすいところに飛んでくるし、アウトにすることだって簡単でした。バスケのシュートだって、外したこと、ありませんでした」
先生は黙って聞いていてくださっていた。どんな表情をしていらしたのかは、俯いていた私には分からない。
「もともと私のいた部はそんなに強い方じゃあなくて、それでごまかしの効いた部分もあると思うんですけど……一年生の頃、大会に出るための選抜試合で、私は……勝ち残って、しまったんです。実力ではなく、スタンドの力で」
今でも忘れられない。私が蹴落とした先輩達の顔も、罪悪感も。
「一度それに頼ってしまったらずるずると歯止めが効かなくなって、期待に応えなければと思って……団体戦でしたから、途中で敗退はしたんですが、スタンドの力で私はずっと勝ち続けました。罪悪感よりも、勝てることが嬉しくて、勝つことに満足して、っていう方が強くて……でも、思うように球が打てないまま負けて、悔しそうに泣いていた相手の子を見て、私はやっと、もうテニスはやめようと思ったんです。でも……先輩達が、私がいれば安心だって、そう言って引退していったから……」
罪悪感と責任感が重くのしかかり、勝たなければ、果たさなくては、そんな気持ちばかりが私を支配していた。もはや以前悪いと思いながらも感じていた楽しささえも、なくなってしまっていた。
「先生、私は、私のスタンドは、こんな私に相応しいのでしょうか。実力じゃあないのに周りを蹴落として、ただ勝つためだけに、スタンドを使った狡いやり方で、私は――……」
元々話すことは苦手で、他の人にこのことを打ち明けたのも初めてで、酷くたどたどしくて聞き取りにくい言葉だったと思う。
幻滅されたとか、失望されたとか、でも元々私は先生の中でそんな言葉が出てくるような存在でもないのかなあとか、色々考えていたけれど、先生の答えは思ったより早く返ってきた。
「何故そう思う?」
「……へ?」
「別に他人の力を借りたわけではあるまい。勝利するために己の力を使うことの何が悪いというのだ?」
先生は訝しげな顔で私を見ていた。慰めだとか諭すだとか、そういうのは一切なくて、本当に分からないというふうな表情だった。……否定、されなかった。
「それとも、そのテニスとやらにはスタンドを使ってはいけないというルールでもあるというのか?」
「い、いえ、ない、です……けど」
「ならば問題なかろう。貴様は自分の力で勝利したということだ。スタンドなどに拘らなくとも、元々持つ者と持たざる者というのが存在し、持つ者が勝利する。それだけの話だ」
それから先生はこの話に興味をなくしたようで、試しにスタンドで何かやってみろと言ってきた。私は放心していたけれど、すぐにはっとしてキャンディ・Oを護身用に持っていたビー玉(勢いよく額に当てれば意外と効くのだ)に取り憑かせた。空中を飛び回るビー玉を見て、先生は、もっと大きなものはどうなのか、重さの制限はあるのか、スタンド自身や取り憑いたものはどこまで飛ばせるのか、など色々と聞いてきた。先生が自分から私に何かをお尋ねになるということに、今度は嬉しさの方が勝って、私はご飯を食べるのも忘れてそのひとつひとつに答えていったのだった。
ふと、私は自分が酷く安堵していることに気付いた。それは先生のくださった答えに対するものだけじゃあなくて、先生に嫌われず、今まで通りの関係でいられることに対しての安堵だった。ついさっきには嫌われる不安をおしてでも先生にこのことを打ち明けたというのに。――私はそれほど鈍感じゃあない。すぐに気付いた。これはきっと"恋"なのだと。
今思えば、この時の私は先生のことをよく分かっていなかった。先生が私のやったことを、私のやり方を否定するはずがなかったのだ。私はとても狡い方法で救われてしまった。先生はきっと誰に対しても同じ答えを出すのだ。それは純粋な肯定だった。
それでも、一度芽生えてしまった――いや、長く深く私に根付いた恋心が、簡単に消えるはずもなかったのだけれど。
ぺら、と先生がページを捲る音が、私をひと時の追想から現実へと引き戻した。……また想像に時間を費やすという勿体ないことをしてしまった気もするけれど、記憶の中の先生もかっこよかったので良しとしよう。
結構な自信作だったコロッケを飲み込み、私はまた口を開く。今日こそは、言わなければ。
「先生、実は私、保健委員なんですよ」
そう、先生に擦りむいた膝を治療していただいたあの時から、きっともう私は先生に心酔していたのだ。あの美しいひとと関わりを持ってみたい、もっと知りたい――そんな一心からその日の委員会決めで真っ先に保健委員会に立候補した。既に噂を聞いていたクラスメイトや、担任の先生にも考え直せと言われたけれど、知らないふりをして突き通した。どうせ誰かがやらなければいけなかったのだから、むしろありがたがる雰囲気もあったと思う。
保健委員会の仕事の中には、昼休みに保健室で先生の補佐をする、というものがある。けれどそれはしなくていいと最初の会議で委員長が言ったので、誰もその当番をしていない。私はただ保健室に遊びにきて、ご飯を食べて会話をしているだけだ。先生の手伝いらしいことはしたことがない。
けれど、私は先生のお役に立ちたい。何も言わずとも毎日受け入れてもらえるこの関係が心地よくて、なかなか言い出せなかったけれど、とうとう私は先生に打ち明けたのだ。先生はとても優秀でいらっしゃるから、私が先生のためにできることなんて少ないかもしれない。それでも、『先生の補佐』という立ち位置を、私が独占できるのならしてしまいたいと、欲を出してしまったのだ。
そんな私のなけなしの勇気を振り絞った発言に対して、先生の返答は思いがけないものだった。
「……だからか?」
「えっ?」
「貴様は保健委員だから、毎日毎日律儀に保健室に来ていたというのか?」
心なしか、いや確実に、先生の声が冷たい。鋭い眼光が真っ直ぐに私を射抜いている。一瞬にして、どうしよう、失言だったのだろうか、と焦ってパニックになり、頭が真っ白になる。いつもならご褒美とさえ思えるようなその眼差しも、今は恐怖しか感じなかった。
とうとう泣き出しそうになったその時、ふと、真っ白だった脳内に色が差す。きっとこれが正解なのだという返答が、私の心に降りてきた。
落ち着くために、息を吸って、吐く。先生は未だに目を細めて私を見つめている。
「逆、です」
「なに?」
「毎日保健室に来たいから、保健委員になったんです」
心臓がバクバクとうるさい。これは告白してしまったも同然なんじゃあないだろうか。いや、さすがに毎日訪れていれば先生も私の気持ちにお気付きなのではないかと思うけれど、言葉に出すのは初めてだ。沈黙が続く。数秒か数分か、一時間ぐらいにも感じる。――私は明日もここに来れるだろうか。拒絶の言葉も、勇気を失くすのも、怖くて怖くて仕方なかった。
「……そうか」
返ってきたのは、いつもと変わらない相槌だった。咄嗟に俯いていた顔を上げるけれど、先生は何事もなかったかのように本を読んでいる。よくよく見れば、口元は微かに弧を描いていた。
呆気にとられていると、先生は読んでいた本を閉じ、立ち上がる。先生が、あの先生が私の方に歩いてきているというのに、私は身動きひとつできないでいる。
「莉乃」
――全身に震えが走った。
先生のかすれた低い声が、確かに私の名前を紡いだ。初めてここを訪れた時、一回だけ自己紹介し、来室カードに書いただけの私の名前を、先生が覚えてくださっていた! 先生ほどの頭脳ならば、一回聞いた名前くらい簡単に覚えられるのかもしれないけれど、それでも今まで一度だって、苗字すら呼ばれたこともなかったのに!
「――カーズ、せんせい」
放心して先生の名前を呼ぶ私に、先生は満足そうに笑う。
「保健委員の当番は、昼休みと、放課後だ」
「…………へ?」
「わざわざここへ足を運ぶ物好きは貴様くらいしかおらん。これからはしっかりと仕事を果たせ」
何を言われているのか一瞬分からなかったけれど、ひとつ思い当たったその意味に、動揺せずにはいられなかった。もしかしたら、私は夢を見ているのかもしれない。
「……放課後も、来て……いいんですか……?」
「それが保健委員たる貴様の仕事だろう?」
「っ……はい! 精一杯、務めさせていただきます!」
勢いよく立ち上がったせいで椅子がガタリと音を立てて倒れたけれど、そんなの気にならないくらいに脳内が喜びで満たされている。
――『失礼します、あの、膝を擦りむいてしまったのですが……』
――『……そこに座れ』
忘れるなんてできない、あの日の、先生との初めてのやりとりが浮かびあがる。
――『あ、ありがとう、ございます……あの、私、一年の桜庭莉乃です』
――『……成る程な、新入生か。……カーズだ。これからは俺の手を煩わせぬよう気を付けろ』
荘厳な鐘の音、いつかコンサートで聴いた歓喜の歌。晴れ渡る美しい青空。喜びを象徴するあらゆるイメージが駆け巡る中、一番はやっぱり、先生と出会えたことだった、ということなのだろう。
「それから……む?」
先生の視線が、下の方に向けられる。何だろうと思って視線の先を追ってみると、どうやら私の手元を見ていらっしゃるようだった。
「おい、手を見せてみろ」
「へ? ……ああ、切れてます、ね」
「……今まで気付かなかったのか……」
左手の指に切り傷ができている。教科書か何かで切ってしまったのだろう、少しだけ血が滲んでいた。正直今までは脳内麻薬か何かで痛みに気付かなかったというのもあり得ない話ではない。
先生が私の手を取る。ドキリと心臓が跳ねた。次に感じたのはあの時と同じ、少しビリッとした感覚だった。
「初めて会った時にも怪我をしていたな。全く、貴様はやはりドジだな」
「す、すいません……」
先生は嘲笑とも苦笑ともとれる笑みを浮かべながら、すっかり傷の消えた私の指を撫でた。ゾクリとして、それからますます頬に熱が集まるのを感じる。
「だが、それがなければ……いや」
小さく何かを呟いて、先生は伏せていた視線を上げた。未だ私の手は先生に握られたままで、私は先生から視線を逸らせずにいる。そんな私に、先生は目を細めて次の言葉を投げかけた。
「月が欲しいか、莉乃」
今度こそ何のことだか分からない。それでも先生があまりにも妖艶に笑うものだから、私はぼうっとした頭で無意識のうちに頷いていた。先生は口元の笑みを深めると、私の手を離して白衣のポケットからスマートフォンを取り出した。太くごつごつとした指の先が、しなやかな動きで画面をなぞるのに目を奪われる。
「ふむ……今夜は晴れのようだな」
「……?」
「喜べ。今夜はこのカーズ直々に、星間飛行に連れて行ってやる」
「……えっ、」
「俺がおまえに月をやろう」
放課後は夜まで学校に残っておけ、と言いながらスマートフォンをしまう先生に、私は言葉が出ない。昨日までただ一方的に私が喋り続けていただけの関係だったのに、どうしてここまで飛躍してしまったのだろう。嬉しさもあるけれど、戸惑いや混乱も大きい。まるで今までずっと遠くにあると思って眺めていたものが、いきなり手の届く距離まで近づいてきたかのような――
「いつまで間抜け面を晒しているつもりだ? 早く食わねば休み時間が終わるぞ」
「え、あ……」
指先を赤い舌でぺろりと舐めながら先生が言う。あまりの色っぽさに倒れそうになるのを必死で抑えつつ時計を見てみれば、確かに早くお昼を食べてしまわないと次の授業に間に合わない時間だ。私はとりあえず考えるのをやめて、椅子を直してから席についてご飯をかき込んだ。少し冷めていたけれど、味はよく分からなかった。あと、ひとつ残っていたはずのコロッケが何故かなくなっていた。
食べ終わってお弁当箱を巾着袋に戻したのとほぼ同時に、授業五分前を告げる予鈴が鳴る。ほっと一息つくと、先生が頬杖をついてこちらを見ているのに気が付いた。……ずっと見られていたのだろうか。一気に顔に熱が集まって、私は思わず俯いてしまった。
「間に合ったか。そら、早く教室に戻れ」
そう言って先生は手元の本に視線を落としたけれど、私はお弁当箱をぎゅっと抱きしめて俯いたままでいた。放課後になればまた先生に会えるし、きっと夜に、その、デート……のようなものに連れて行ってくださるまで一緒にいられると思う。でも、今先生のそばから離れてしまうことが、私にはなんだかいけないことのように感じたのだ。離れたくないと思ったのかもしれないし、離れてはいけないと本能が告げていたのかもしれない。
心を決めれば、思いのほかすんなりと口が動いた。私は悪い子になってしまったようだ。
「先生、私、なんだか熱が出てきちゃったみたいです」
ページを捲っていた先生の手が止まり、視線が向けられる。
「そうか」
先生は微笑んだ。やさしい微笑にも見えたし、それでいいとでもいうような満足そうな笑みにも見えた。
「ならば、熱が引くまでここで休んでいるといい」
本鈴が鳴っても動けずにいる私を見て、先生は頬杖をつきながら楽しそうに歯を見せて笑った。泣きたいくらいの幸せが押し寄せて、思わず私も笑顔になる。きっと今にも本当に泣きだしそうなくらいに顔が歪んでいて、笑えているかどうかも定かではない。そのくらい不器用な笑顔だったと思う。慌てて教室に走っていく生徒の足音が遠くで響いていて、ああ、サボっちゃったなあなんて他人事のように頭の隅で思っていた。
そんな光景を、壁にかけられた石の仮面だけが、瞳のない目で見つめていた。
月の時間
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