痛々しいキスの話

 初めてのキスはレモン味ではなく血の味だった。

「…………ん、ぅ」

 普通の人じゃあちょっとお目にかかれないくらいに尖った犬歯が、私の唇に食い込んでいく。少しでも力を入れればぷちりと皮膚が喰い破られてしまうのを経験上知っている。痛さに滲んだ涙が私の血と混じり合って、カーズ様の喉の奥に飲み込まれることになるのも。
 キス。くちびるでふれること。ただ押し当てたり、少し吸ってみたり。そういうものだと思っていたのに、蓋を開けてみたら痛みと流血を伴う苦行であった。たしかに唇は合わさっているし、背筋はぞくぞくとして、頭はふわふわとして、息は荒くなる。でも、キスとは本来もう少しロマンチックで、甘いものだと思っていた。
 もしかしたら、カーズ様のいたところにキスの文化はなかったのではなかろうかと、私は訝しんでいる。

「…………ッ!」

 一線を越えた鋭い痛みに、私の身体が跳ね上がる。今日は流血沙汰の気分だったらしい。いくらあとで治してもらえるとはいえ、噛み傷というのは相当なものだ。
 じわりと目頭が熱くなる。軽く咀嚼するようにカーズ様が顎を動かすたびに涙が零れる。ぴちゃりと小さく音がして、鉄のにおいが鼻につく。痛いと泣き叫びたくても、それを紡ぐ唇は楔を打たれている。こうなれば私にできることは、涙を流して耐えるだけだ。こんなの、おかしいんじゃあないか。
 私とカーズ様は普通の恋人同士じゃあないけれど、それでも普通の恋人のように普通のキスがしたいのだ。今日という今日は、はっきりと言わなければならない。血を啜っていた唇が離れた瞬間、私はカーズ様をきっと見つめた。

「……あの、カーズ様」
「何だ」

 カーズ様の唇が、私の血で赤く濡れている。不格好な口紅みたいで、男の人なのに妙に似合っていた。

「キスっていうのは、唇だけでするものです。歯を使う、ものじゃあ、ないです。歯はいらない、です」

 上下の唇が合わさるたびに鈍い痛みが走るけれど、それでも頑張って言い切った。視界は涙で滲んでいるけれど、カーズ様が片眉を上げたのがわかった。

「唇だけ、だと?」
「は、はい……」

 ふむ、とカーズ様が唇の血を舐めとりながら、何かを考える様子を見せる。牙で相手を傷つけることを、断じてキスとは呼ばないのだ。多分別の何かだ。私が人間のキスの何たるかを、究極生物だというカーズ様に教えなければならない。
 そんなことを息巻いていると、再びカーズ様の顔が近づいてきた。また噛まれるのかとぎゅっと目を瞑ったけれど、そんなことはなく、普通に唇を合わせるだけだ。鋭く尖った牙の代わりに、私より厚みのある唇が、私の下唇の傷口を食む。痛みはじんじんと痺れるようで、唇の柔らかさが感じ取れるまでになる。カーズ様がするのと同じように、少しだけ上唇を挟み込んでみれば、カーズ様の動きが一瞬だけ止まってしまった。気に障ったかと思えば、次にやってきたのは突然の強い痛み。

「ッい、ふ、うぅっ」
「………………」

 にゅるりとした感触。どうやら傷口を舐められたようで、染みる痛みに思わず悲鳴が漏れた。僅かに開いた口の中に、生温かいものが滑り込んでくる。

――――なに、なに、こんなの、しらない。

 私を混乱へと突き落とした侵入者は、私の喉を塞がんとするかのように、口の中を満たす。厚い舌が前歯の裏をねっとりと這っていくのと同時に、下半身から脳天にかけて、ぞわりとした感覚が駆け上がる。目は見開いているのに、なにが見えているのかわからない。感覚の全てを支配されているかのよう。

「……や……あ、ふ」
「…………ン、」

 私が情けなく鼻息と声を漏らすことしかできないのに対して、カーズ様の息の抜けるような唸り声が鼓膜に届く。逃げようとする舌はあっさりと絡めとられて、水音が激しさを増していく。痛みはもはや甘い痺れでしかない。どうして、こんなことをされているのだろう。
 生ぬるい液体がとろりと顎を伝う。それは血なのか、それとも唾液なのか。舌の裏をゆっくりと舐め上げられたのを最後に、熱い舌が引き抜かれて、唇も離れていった。一瞬だけ唾液が薄紅色の糸を引き、ぽたりと服に染みを作る。

「――これでも唇だけでいいのか?」

 赤く染まった唇が、にんまりと弧を描いていた。私は息を荒げてぼんやりとするばかりで、何も答えることができない。無言は肯定だとばかりに、もう一度唇を塞がれた。びっくりするほどやさしい動きで、今度は私の舌がカーズ様の口の中へと誘われていく。硬いものは何度も私を傷つけてきた白い歯だ。カーズ様が私にしてくれたようにすればいいのだろうかと思ったのも束の間、ガリ、と目の覚めるような痛みが私を襲う。

「~~~~~~ッ!?」

 この、この、結局噛むのか。止まったと思われた涙がまた滲んでくる。焦点の合わない目できっと睨みつけて抗議すると、カーズ様はちっとも怖くないとでもいうように唇を離して目を細めた。

「う、うぅ……!」
「ハッ」

 渾身の睨みも鼻で笑われて、零れた涙と赤い血が、私の目尻で溶けあった。