ブルーム・ボックス・オブ・エデン

 瞼の裏にほのかな光が灯る気配がした。
 昨夜は部屋のカーテンをことさらに固く閉め切ってベッドに入っていた。この世の何者の目にも映せない秘め事があるかのように、風のひとつも入らないように。だから、私の瞼を不躾に刺したこの光が、朝日だとするならば。
 顔まで布団に潜り込みたいという衝動をぐっとこらえて、薄らと瞼を開く。眩しさに目が霞んで、はっきりと姿を捉えることはできなかったけれど、視界の中で揺れる宵闇色はすぐに目についた。

「――――……」

 呼びかけようとしたけれど、あいにくとうまく声が出ない。微かな息だけが喉から漏れ出す。いつもと違う朝のにおいが鼻を通っていく。
 けれど、それだけで彼が気づくには十分だったらしい。

莉乃

 ずいぶん優しい声で呼んでくれたなあ、と思った。耳に残っているのは地を這うように低い声だったから。
 起き上がろうとしたら冷たい空気が首元から入り込んだので、咄嗟にもとの体勢に戻って布団を口元まで引き上げる。ベッドに腰掛けるカーズ様は、そんな私を見下ろして鼻で笑った。恐ろしく整った顔に逆光が影を作っているさまが、ようやく機能を取り戻した私の瞳に映った。
 カーズ様は朝日を眺めていたようだった。出会ったばかりの頃はよくそうしていたのをぼんやりと思い出す。いつもその光景を美術館の絵画のようだと思っていた。荘厳な絵画にしては、背景に映るカーテンの柄がやたらとガーリーなのが玉に瑕だが。
 稀代の彫刻家が石と魂を削って作り上げた最高傑作。神話に語られる造形美。ほかになんと表現すればいいだろうか。現実離れした美しさのせいか、カーズ様を見ているとき、私はいつもどこか夢見心地でいる。ひとたび目があって名前を呼ばれれば、それだけで頭は霞がかってしまう。今もそう。

「……おはようございます、カーズ様」
「ああ」

 なんとか絞り出した声はひどくかすれていた。水を飲みたい私と布団から出たくない私がにらみ合いを始めたものの、すぐに両者ともにこのままカーズ様を眺めていたいという結論に落ち着いた。私は争いを好まない平和主義なのだ。
 少しの間目があっていたかと思えば、カーズ様は立ち上がりレースのカーテンを閉めて、それから寝転がる私の近くに手をついた。ギシリと軋む音がする。シングルサイズのベッドはカーズ様ひとりにとっても窮屈で、少し頼りない。むかし雑誌で眺めては憧れていた、金属パイプのロフトベッドに思いを馳せた。もし私の部屋にあるのがあのベッドだったら、あっという間に崩れてしまっていたかもしれない。

「まだ夢を見ているようだな」

 宵闇色のカーテンが眼前で揺れて、私から陽の光を奪う。暗い紫の髪が、柔らかな光を受けてきらめいている。写真でしか見たことがない、異国の満天の星をたたえた夜空や、遠い宇宙の星雲をとらえた色。そして私を覗き込むのは、血のように赤い瞳だ。鮮烈な色彩が私の視界を満たす。目が覚めるどころか、頭の中の霞はいっそうに深くなっていく。

「そのまま一日中寝転がっている気か? 俺は構わんがな」
「…………おきます、けど」

 葛藤はたっぷり十秒間。確かにだるいし、疲れているし、とても魅力的なお言葉だったけれど、私だって今日という日を楽しみにしていたのだ。無為に過ごす気は……ない。

「……ただ……」
「ただ?」
「……シャワー、あびたいです……あびたいけど……ねむい……」

 喉から絞り出した私の『要望』に、カーズ様がため息をつく。けれど、カーズ様が私の頼みを跳ね除けたことは一度もないと、私はちゃんと知っている。
 カーズ様の大きな手が私の布団を引き剥がす。むき出しの肌が急に外気に晒されて、ぶるりと背筋が震えたけれど、そんなことはお構いなしとばかりにもう片方の手が私のお腹に触れた。もう一度、今度は全身がひくりと跳ねる。

「あっ――……」

 思わず漏れた声にカーズ様の唇が弧を描くのを最後に、私の意識は落ちていった――――

     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「(ちょっとカーズ様、このシャツ部屋着じゃあなくて出かける用だったんですけど)」
『貴様、それを着て外を出歩くつもりか? やめろ』
「(えぇ……かわいいのに……)」

 気がついたときには全身さっぱり、着替えもばっちり、しかし着ていたシャツはお出かけ用に注文したばかりのねこちゃん柄だった。この素晴らしさがカーズ様には理解できないようだ。
 ――カーズ様は、生物の体の中に潜り込むことができる。
 言い方は悪いけれど、カーズ様と出会ってから、私はカーズ様に寄生されている状態だった。私はカーズ様の宿主で、隠れ蓑だったのだ。ちびでやせっぽちな子供の私よりもずっとずっと大きなカーズ様のかたちがねじれて、私のおへそから出入りする感覚は、未だに慣れることができない。どうしてあんな大きな体が私におさまってしまうのだろうと疑問に思ったことは一回では済まないけれど、何にでも理屈を求めるのは悪しきことだと、おかあさんは言っていた。つまり、世の中には別に知らなくても問題ないこともあるということだ。
 カーズ様が私の中にいるときは、体の中の全てを握られているということになる。おかげで私は毎日すこぶる健康に過ごすことができた。それ以外にも、主導権というのだろうか、そういうものをカーズ様に差し出すことも(あるいは奪われることも)できるのだ。その間私は起きているときもあれば、今日みたいに寝てしまうこともある。休めているのは頭だけだから、疲れがとれるかといえば微妙なところではあるけれど、さすがにシャワーを浴びた体からは眠気も飛んでしまう。
 じくりと体の奥が疼いたかと思えば、シャツの裾を押しのけながらカーズ様の右腕がお腹から生えてくる。あっという間につま先まで這い出して、人のかたちをとっていた。もう、カーズ様に隠れ蓑は必要ない。

「猫ならあちこちにいるだろうが」
「もう、それとこれとは話が別なんです」
「わからんな……」

 頬を膨らませながら朝食用の林檎デニッシュの袋を開ける。バターと林檎の甘い香りを贅沢に楽しみつつ一口目をかじった。カーズ様は見ているだけだ。カーズ様はしばらく食べなくても、そして眠らなくても生きていけるらしい。三大欲求のうち二つを置いてきてしまうとは、なんとももったいないことである。

「さっさと食え」
「んむ…………けほっ、ゴホッ」

 急にパンを押し込まれて思わず咽る私を見て、カーズ様はたいそう楽しそうににやにやと笑っていた。

     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 集合時間も何もないカーズ様との外出は、いつも出発が遅れがちである。今日も結局優雅にホットミルクを飲み服を選び髪に結ぶリボンの色に悩みととだらだらしていたら、せっかくの早起きが無意味になってしまった。いや、早起きしていなかったらもしかして昼過ぎに出ることになっていたかもしれないけれど。
 やっと家から出られたと思いきや、玄関の前で近所のねこちゃんたちがご飯を待っていたのはもう仕方ないと思う。とっておきのまぐろスープを振る舞った。みんなおいしそうに食べている。水のお皿に追いやられた子のために、煮干しのお皿も追加した。

「ふふ…………」

 ねこちゃんというのはご飯を食べる音までかわいい。にやにやを抑えろというほうが無理な話だ。永遠に見ていられる。
 以前はこっそり隠れてご飯をあげていたけれど、今ではこうしておおっぴらにやっている。野良猫に餌をやらないでください、なんて呼びかけがたまに目についたものだけれど、そんなのはもはや知ったことではない。気にする人もここにはいないのだ。

「あれだけ楽しみだと言っていたわりには随分とのんびりしているな」
「だってねこちゃんですよ? それに、いざ出かけるとなると……でも、楽しみなのは今でもほんとですよ」
「……あまり期待しないことだな」
「えぇ~?」

 キジトラの子のまるい頭を指でそっと撫でる。いいものを食べているので、このあたりのねこちゃんは毛並みがいい。このままのびのびと元気に育ってほしいものだ。

莉乃、もう行くぞ」
「はぁい」

 用意したスープをねこちゃんたちが食べ終わるには、しばらく時間がかかるだろう。名残惜しいけど、さすがにずっと見ているわけにはいかない。出発の時間だ。
 カーズ様に寄り添えば、ふわりと足が宙に浮く。逞しい腕で軽々と抱き上げられて、いつも見上げている横顔を間近に見た。右手でクリーム色のカーディガンの前を、左手でカーズ様の着ている黒いシャツを握りしめる。もう冬も近づいているというのに、暑さ寒さを知らないカーズ様は今日も大きく背中の開いた服を着ていた。背中から飛び出る黒い翼にとって、布切れなど邪魔でしかないのだろう。
 生身のまま風を受けて鳥のように空を飛ぶ、という体験をした人はこの世界にいたのだろうか。空を滑る人はいても、浮かび上がる人は。もしも私だけだったのなら、とても光栄なことだ。
 羽ばたきの音が鼓膜を叩くのをちょっとだけ、ほんのちょっとだけうるさく思いつつ、遠くなっていく眼下を眺める。私達の暮らす建物は、周りよりも少し浮いていた。白くて綺麗だった壁は薄汚れてしまっている。家の中を快適に保つだけで満足して、外観にまで気が回っていないのだ。
 おにいちゃんにおねえちゃん、おとうとにいもうと、そしておかあさん。……みんなと過ごしたこの家は、私とカーズ様の二人だけには広すぎた。

「少し速度を上げるぞ」
「落とさないでくださいね?」
「この俺を誰だと思っている?」
「究極最強カーズ様です」
「…………まあいいだろう」

 カーズ様は胡乱な目をしていた。真面目に褒めたのに。
 頬にあたる風は強くなっても、私を抱く腕の安定感は少しも変わらない。カーズ様に擦り寄せていた顔を、そっと進行方向に向けた。遠くから見てもたいそう目立つ、巨大な白銀の柱。『都市』のあかし。
 おかあさんは、みんなは、いつも。あれに向かって祈っていた。

     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 どれくらい飛んでいただろうか。ようやく降り立ったのは、私がずっと訪れてみたかった場所だった。なんだか胸がわくわくする。

「ここが、都市……」

 都市。それは世界の中心地である。人が、モノが行き交う場所。区画は美しく整備され、どの建物も洗練されている。ショーウィンドウの向こうでポーズをとるマネキンも、いかにも高そうなファッションをしている。大胆なオープンショルダーのミニワンピースにサングラスがキマっていた。
 上空から見ていて思ったのが、とにかく美しい建物しかないということだ。私のいた街にはまだ地上タイプの古い工場とかが残っていたりしたのだが、ここではそういった景観を損なうような施設は完全に地下のものとなっていると聞いたことがある。さすが都市。
 普通なら入れる人間も制限されていて、許可を得ていない人は門のところで引っかかってしまうらしいのだが、カーズ様と私にはそんなことは関係ない。
 しかし、どこでも入り放題というわけでもない。遠くから見るよりも、こうして近くから見上げたほうがその巨大さがよくわかる、白銀の柱。私としては上に支えているものもないのだからあれは塔というべきなのではとも思うし、実際に塔と呼んでいる国もあるらしい。しかしこの国では昔から柱と呼んでいるから、あれは柱なのだと思うことにしている。昔の人にはそう見えたということだ。
 そんな柱を囲む壁は、今もなお超高性能の無人システムで厳重に守られている。さすがにあの中に人間はいないだろう。あそこはそういう場所なのだ。

「てっぺん、空からでもよくわかりませんでしたね」
「人間の視力ではそうだろうな」
「カーズ様は見えたんです? どんな感じでした?」
「面白いものはなかったが」
「なあんだ」

 知れるのなら知りたかったけれど、今となっては別に特段気になるというわけでもない。柱のことは一旦忘れることにした。 

「とりあえずお昼を買いましょう。ほら、あそこにコンビニがありますよ」
「わざわざここまで来ておいてコンビニか?」
「むっ……」

 そう言われるとそのとおりとしか言えない。しかし私には高級料理を贅沢に楽しむすべもないのだ。

「でも、都市ですよ? きっとラインナップも豪華なはずです」
「商品の均一さこそがコンビニの魅力だと力説していたのはどこのどいつだったかなァ」
「むむっ……」

 返す言葉がなさすぎる。

「と、とりあえず! 行ってみましょうよ! 気軽に入れるのもコンビニの魅力ですよ」
「フン」

 鼻で笑うカーズ様の手を引いて、街で見慣れていたのと同じ看板を掲げるコンビニへと入っていく。都会なのだからさぞ商品が溢れているのだろうと期待していた。……していた、のだが。

「…………あれ?」

 言うなれば、拍子抜け、だろうか。商品棚は想像以上にすかすかだった。賞味期限や使用期限が切れたものは自動で廃棄されるから、少ないのは仕方ない。それでも、私の街では、ほそぼそと自動的な補充が続いていたのに。というか、まず電気すらついていない。

「……なんで……?」

 呆然とする私の肩に、カーズ様が後ろから手を置いた。

「食料はいいのか」
「……やっぱり、ちょっと食欲ないです」
「そうか」

 私の住んでいた古い街ですら、最低限ながらも機能し続けていたはずだ。だから私は今まで生きてこられた。なのに、徹底的に管理されているはずの都市が、どうして。

「ならばさっさと行くぞ。気が済むまで都市を周るんじゃあなかったか」
「…………はい」

 カーズ様に肩を抱かれてコンビニを後にする。周囲を見回せば、やはり、電気のついている店はひとつとしてない。自動ドアの類は、全て開け放たれていた。

     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 それから、都市をぐるりと一周した。空から全体を見て、めぼしいところは自分の足で。声を上げて。

「誰か」

 どれだけ呼びかけても返事はなく、たまにカラスの鳴き声が聞こえるだけ。

「誰か、いませんか」

 公園の地面にはまばらに落ち葉があった。あんな状態になる前に、清掃ボットが片付けていくはずなのに。

「……だれか……」

 ここにはこの国で最も優秀な人達が集まっていると聞いた。けれど、今は影も形も見当たらない。
 希望は、楽観は、かくも容易く砕け散った。

     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 日が落ちるのはこんなに早かっただろうか、と思った。茜を帯びた宵闇が都市を黒く染めている。カーズ様に初めて出会ったとき、ふと連想したのがこんな日の紫雲だった。紫の雲は吉兆なのだと教えてくれたのは誰だっただろうか。
 外周区域の中でもいっとう高い建物の屋上で、私は誰もいない街を見下ろしていた。今までに見た中で一番美しい景色だった。なんだか複雑である。

「…………だーれもいませんでしたねえ」
「だから期待するなと言ったのだ、馬鹿め」

 背後からカーズ様の声が降る。言葉はどうしようもなく冷たいのに、その口角がつり上がっているのがなんとなくわかってしまう。

「神とやらがそう簡単に人間を見逃すはずがあるまい。それも自分の真下となればなおさらな」
「……神……」

 振り返れば、カーズ様は背後にある白銀の柱を見上げていた。柱に窓はない。中から外を眺めるという機能は不用なのだろう。

「…………神は、今もあそこにいるのでしょうか」
「さあな」

 あの柱ができたのはいつなのか、つくったのは誰なのか、私は知らない。人の手によるものなのか、それとも神の手によるものなのかすら定かではない。おかあさんを育てたそのまたおかあさんが生まれる前には、もうあったらしい。
 ――――あの柱は、神のいる場所だ。
 柱の中にいるのか、柱の先端が指す空のもっと上にいるのか、それとも柱そのものが神なのか。柱の存在を知ったカーズ様は色々と考えては私に話してくれた。その全てが、私にとっては新鮮だった。理屈を求め、疑問を持ち、未知を明かそうとすることが、初めて許された気がしたのだ。

     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 人は誰もが神を信じている。
 遠い昔の人が紡いだ神話とは違い、今、神と呼ばれるものに名前はない。誰も知らないだけなのかもしれないし、本当にないのかもしれない。
 神は私達の生活の全てを守ってくれていたのだという。どこで誰が産んだのかもわからない、私のような孤児も含めて、全ての人間は神の祝福を受ける決まりになっている。さすがに覚えていないけれど、私も一度はここに来ているはずだ。そんな神もさすがに世界中の人間に祝福を授けるのは難しいらしく――祝福は神の御許、つまりこの国でいう都市で受けるものなのだ――国ごとに別の神がいるのだという。
 人が毎日ご飯を食べられるのも、インフラや流通が決して途切れないのも、安心してひとりで歩ける夜道も、神がもたらした技術のおかげだ。多少生まれが不幸でも、生きていくのに決して苦労はしない。神の祝福は、一人の取りこぼしも許さない。
 そんな『神様』にみんなが感謝するのは至極当たり前のことだ。おかあさんはいつもそう言っていたし、私も物心ついた頃からそういうものだと思っていた。私も白銀の神を信じる人間のひとりだったのだ。
 でも、私はカーズ様に出会ってしまった。
 もう何年前だろうか、私は家出してやろうと街の外に出てしまったことがある。理由は覚えていない、きっと些細なことだったのだろう。人の生活圏の外で途方に暮れていたところに現れたのがカーズ様だった。宇宙から来て、この星に落ち、しばらくの間さまよっていたらしい…………というのは、少しだけあとに聞いた話だ。
 私の頭の中から語りかけてくるカーズ様は、色々なことを教えてくれた。鳥はどうやって飛んでいるのか、深海の生き物が潰れてしまわないのは何故か。私が一度も見たことのない生き物だって見せてくれた。そして、途方もない時間をかけたかつての旅の顛末も。
 カーズ様のいた星は、この星と非常によく似ているのだという。生態系も、人の織りなす文化も、不自然なくらいに共通しているとか。その中から小さな差異を見つけてそれを語ってくれたときが、一番わくわくしたのを覚えている。
 そこまでの共通性が奇跡のようなことだというのは、私にも理解できる。もしかしたらこの星にもカーズ様みたいな存在がいるかもしれないし、向こうには私のそっくりさんだっているかもしれないですね、と言ったら、馬鹿なことを言うなと返されたけれど。
 そうやってカーズ様と過ごしていく中で、私は自分の中から神への感謝や敬いの気持ちが、すっかりとなくなってしまっていることに気づいた。当たり前のようにそこにあった思考がなくなって戸惑う私に、カーズ様は言った。
 ――――あんなもの、貴様には必要ない。
 その言葉はすとんと胸に落ちて、それから私は神を信じることをやめた。

     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「……どうして人は神の怒りなんて買ってしまったんでしょうね」
「人間が愚かなのはどの世界でも変わらんということだ」
「だからって、自分で人間助けてたくせに勝手ですよ」
「下等なものをどう扱おうと勝手だろう?」
「それは……確かに」

 人間を下等生物と言って憚らないカーズ様の言葉には、妙に説得力があった。今も暇そうに私の髪を好き勝手弄っている。
 楽園とまで呼ばれ持て囃されていた人間の時代は、唐突に終わりを告げた。神は人間を不要と断じ、全ての人間を排除するとある日宣言した。その直後のことを、私はよく覚えていない。一緒にいたおかあさんとおとうとが急に苦しみだしたのだけが記憶に焼き付いて――目を覚ましたときには街から人間だけが忽然と消えていて、私はカーズ様の腕の中にいた。
 おそらく、カーズ様はあのとき何が起こったのか知っている。意識が落ちるときの感覚は、カーズ様が私の意識を奪うときのそれと同じだった。けれど、カーズ様に尋ねる気にもなれなかった。知ったところでどうしようもないし、カーズ様が何も語らないということは、知らなくてもいいことなのだ。

「ここってかしこい人がたくさんいたわけじゃあないですか。どうにかして生き残ってる人がいると思ってたんですけどねえ」
「小賢しい知恵で逃れられるようなら、それは神の裁きとは呼べんな」
「はあぁ…………」

 私の街の機能はまだ生きていて、食料の生産補給も環境の整備もインフラも、今のところ問題はないらしい。完全自動の宅配サービスも使えている。しかし人のための機能を完全に停止してしまったこの都市では、たとえ生き残りがいても生きていくのは難しかったかもしれない。私は運がよかったのだろう。いつかは動かなくなるかもしれないけれど、不思議とカーズ様がいればなんとかなると思えてしまう。

「……せっかく来たんですから、何か持ち帰りましょうか。とはいっても食料は向こうでも手に入りますし……目につくところにあった服はどれも夏物だし、家探しはさすがに気が引けますし……」
「…………莉乃

 ネットワークは生きているのに何の情報も入ってこないことを鑑みれば、他の国にも期待は持てないだろう。カーズ様と、二人きりの世界。ああでもカーズ様は人間ではないから、正真正銘、人間は私だけで…………

「そうそう、私、なんだかんだ都市がこの目で見れて楽しかったんですよ。やっぱり都会は違いますよね!」
莉乃

 ぐいっと上を向かされる。カーズ様の手が私の後ろ髪を引っ掴んでいた。急な痛みに顔を顰めた瞬間、目から熱いものがぽろりとこぼれた。

「……あれ……」
「……やはり連れてくるべきではなかった」

 低く呟かれた言葉を聞いた瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出す。もうじゅうぶんに悲しみ終わったと思ったのに。カーズ様のおかげで、忘れられたと思ったのに。

「帰るぞ」

 離された手が髪を梳くようにように襟足を一度通り過ぎて、そのまま背中に回される。いつもより性急に抱き上げてきたカーズ様の胸元にひっしとしがみついた。
 迫りくる夜に自ら飛び込むようにして、私達は都市を後にしたのだった。

     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 家に帰り着くなり、昼食にありつけなかった私のお腹が激しく主張した。食事を作る気にはなれなくて、レトルトのご飯とカレーで済ませてしまう。お風呂にも入って部屋着に着替えて、もうあとはベッドで眠るだけだ。出かける前に取り替えたシーツの上に飛び込むと、続いてカーズ様がそばに腰掛けた。

「……あーあ……」
「どうした」

 どうして私だけ生き残ってしまったんでしょう――そう言いかけて口をつぐんだ。誰だって死にたくはないし、私ももちろんそうだ。みんなと一緒に消えてしまえばよかったなんて言えない。私にはカーズ様がいるのだ。どうせ死ぬならば、白銀の神なんかの手にかかるよりも――

「なんでもないです」
「フン。……これに懲りたらくだらん希望など持たぬことだな」

 カーズ様が身を乗り出して、私の頬に手を添える。暗い部屋の中、弱々しい間接照明と月の光にだけ照らされたカーズ様の髪は、朝とは違う色をしていた。全てを呑み込むような、闇夜の色。

「衣食住の全てが揃っている。電気もガスも通っている。金銭の心配もない。これ以上何を望む?」
「それは……」
「お前はずっとここにいればよいのだ」

 カーズ様の手が私の頬を滑り、首筋へと至る。何かを選択させようとするとき、私の首に手を添えることが多いのは、果たしてわざとか無自覚なのか。返答を間違えればそのまま首をへし折られてしまうだろうと、本能が叫ぶ。理性は霞がかってきて、ふわりと思考が宙に溶けた。

「それとも、今さらあの神にでも縋りたくなったか?」
「まさか」

 私の首筋を押さえる手をそっと握って、頬を擦り寄せる。たくさんの人間を殺してきたはずのこの手は、今や私にとって唯一の救いなのだ。私はこれからもずっと、この街でカーズ様と生きていくのだろう。

「カーズ様がいてくだされば、それでじゅうぶんです。それに……」
「それに?」
「……私のかみさまは、カーズ様ですから」
「――――――…………」

 虚を突かれたようにカーズ様の目が見開かれる。けれどそれも一瞬のことで、やがてすうっと細められた。

「悪くはないな」

 カーズ様の顔が近づいてくる。受け入れるように目を閉じれば私の視界は闇に閉ざされて、もう光の中に戻ることはない。悲しいこともつらいことも、カーズ様が忘れさせてくれる。
 私はカーズ様を信じている。カーズ様は、何でも教えてくれるから。私の知らない世界のことも、誰かを愛するということも、大人が子供に隠していたことも、何もかも。
 人が神の怒りに触れたとして、なおこうして生きながらえている私は、きっと人ではなかったのだ。
 人の誰もが神を信じていた世界で、私だけがカーズ様を信じている。

     ◇ ◇ ◆ ◆ ◆

莉乃

 月に照らされて白く浮かび上がる頬をつつく。返事はないが、口元が微かにもごもごと動いた。
 それに満足したので、ベッドから立ち上がり奴の端末へと手を伸ばす。電子機器やネットワークというものになじみはなかったが、仕組みを知れば単純なものだ。改造することも意のままに操ることも容易い。今は面倒を避けてあの『神』には手を出さずにいるが……

「……どのプラントにも問題なし、か」

 莉乃は気づいていないだろう。この街のシステムは誰が動かしているのか。誰のおかげで安寧とした日々を送れているのか。態度では頼っていても、具体的に何をされているのかまで考えは及ぶまい。
 宇宙へと放り出され光のない空間をさまよい、この星へと墜落するまでにどれほどの時間が過ぎていたのだろうか。思考を切り捨てていた間のことは何も覚えていない。一度宇宙が滅びていたのだとしても否定はできぬだろう。どこかの星に引き寄せられたと知り、再び大地に立ったときの感動と興奮はひとしおであった。
 この星はかつて俺がいた地球と非常に似通っていながら、人間共の技術は非常に進んでいる。しかし人間の生存圏は非常に狭い。地球もこのざまになっているのならばいい気味だ。あんなものを神と呼んでありがたがるとは。つくづく人間とは愚かなものだ。
 愚かといえば、こいつはいっそ不憫なほど愚鈍だったが。素直に言うことを聞き、知らぬことを理解しようと努力する姿勢はなかなかに好ましい。

「……すぅ……」
「………………」

 呑気に寝息など立てている。他の人間が溶けて消えた直後は朝から晩まで泣き暮らしていたというのに。
 偶然から選んだだけの隠れ蓑ではあったが、得体の知れぬものにいいように操られるのも気分が悪い。――だから取り除いてやった。とんだ『祝福』があったものだ。いざとなれば爆発する奴隷の首輪を、所有物につけたままにしておくわけにはいくまい。

「しかし仮にも自分を信仰している奴らに、随分な仕打ちではないか。なあ?」

 端末を元の位置に戻し、狭いベッドに寝そべり直す。身じろぎする莉乃の頭を撫でてやれば、それだけで幸せそうに頬を緩めておとなしくなった。どうしようもなく憐れみを感じてしまう。
 信仰と忠誠の相手を失った莉乃は、その空白をこの俺で埋めることにしたようだ。気分は悪くない。あの神もどきは信者をうち捨てたが、俺ならばこれを悪いようにはしない。存分に慈しみ、たっぷりと情けをかけてやろう。人間の寿命など、どうせ…………

「…………いや」

 こいつはこれでもこの星で最後の知的生命体だ。こいつが死んだあと退屈になるのも困る。その時が来れば今度は闇の中に大事にしまっておけばよかろう。捨てはしない。飽きて放置せぬ保証もないが。
 この世界の街はそれぞれが箱庭のように独立し、都市を中心に点在している。徒歩での移動は想定されていない。そうでなくとも貴様の居場所は、この街だけだ。何の助けもない土地で、軟弱な貴様が生きていけるものか。
 素朴な花を思わせる色の柔らかな髪を掬い、口づける。体も心も命さえ、この手で以て握っている。それはもしかすると、全ての人間を支配するよりも心地よいものなのかもしれない。昏い悦びが喉から溢れた。

「せいぜい何も知らぬまま笑っていろ」

 せっかくお前に新たな楽園を用意してやろうというのだ。多少の知恵をつけた程度で、逃げられると思うなよ。